前の時間には、礼というものが教育の土台になるということについて話しましたから、今日は一歩をすすめて、一つ、礼の本質としての「敬」という問題についてお話しましょう。
ところで普通には、礼儀を正しくすると言えば、何か意気地のない人間になることでもあるかのように、考えている人もあるようですが、そうではなくて、礼はその内面の敬のこころの現れです。では敬とはどういうことかと申しますと、それは自分を空うして、相手のすべてを受け入れようとする態度とも言えましょう。ところが相手のすべてを受け入れるとは、これを積極的に申せば、相手のすべてを吸収しようということです。
ところが、相手のすべてを吸収しようとすることは、これをさらに積極的に申せば、相手の一切を奪わずんば已まぬということだとも言えましょう。ですから真に徹底した敬というものは、生命の最も強い働きに外ならぬわけです。ですから、すべて尊敬するとか敬うということは、自分より優れたものを対象として発するこころの働きです。自分よりつまらないもの、自分より劣弱なものに対して、敬意を払うということはかつてないことです。
ですから敬うとは、自分より優れたものの一切を受け入れてこれを吸収し、その一切を奪いとって、ついにはこれを打ち越えようとする強力な魂の、必然な現れと言ってもよいでしょう。しかるに世間では、人を敬うということは、つまらないことで、それは意気地のない人間のすることででもあるかのように、考えられているようですが、これは大間違いです。
それというのも、自分の貧寒なことに気付かないで、自己より優れたものに対しても、相手の持っているすべてを受け入れて、自分の内容を豊富にしようとしないのは、その人の生命が強いからではなくて、逆にその生命が、すでに動脈硬化症に陥って、その弾力性と飛躍性とを失っている何よりの証拠です。
そもそも人間というものは、単なる理論だけで立派な人間になれるものではありません。理論が真に生きてくるのは、それが一個の生きた人格において、その具体的統一を得るに至って、初めて真の力となるのです。したがって諸君らも、単に理論の本を読んでいるだけでは、決して真の力は湧いてこないのです。
真に自分を鍛えるのは、単に理論をふり回しているのではなくて、すべての理論を人格的に統一しているような、一人の優れた人格を尊敬するに至って、初めて現実の力を持ち始めるのです。同時にこのように一人の生きた人格を尊敬して、自己を磨いていこうとし始めた時、その態度を「敬」と言うのです。
それ故敬とか尊敬とかいうのは、優れた人格を対象として、その人に自分の一切をささげる所に、おのずから湧いてくる感情です。そこで仮に神仏を対象とした場合でも、これを単に冷ややかな哲学的思索の対象としている間は、まだ真に畏敬の心を発するには至りません。すなわち、それはまだ眺めている態度にすぎないのです。
しかるに今それを神仏、すなわち絶大な人格として仰ぐとなると、そこに初めて宇宙的生命は、有限なるわれわれ自身の内へ流れ込んでくるのです。バケツに汚い水を入れたままでは、決して新しい水は入らない。古い水を捨て去って、初めてそこに新たな水を満たすことができるのです。
尊敬の念を持たないという人は、小さな貧弱な自分を、現状のままに化石化する人間です。したがってわれわれ人間も敬の一念を起こすに至って、初めてその生命は進展の一歩を踏み出すと言ってよいでしょう。
敬について 森信三